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東京芸術大学音楽学部作曲科を経て、同大学院音響研究科卒。1978年アルバム「千のナイフ」でデビュー坂本龍一、細野晴臣、高橋ユキヒロの3人が作ったユニット、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)で、80年代テクノポップ・ブームの立役者となる。代表曲のひとつはマイケル・ジャクソンを経てエリック・クラプトンが持ち歌にするという栄誉を得た。 1983年には、大島渚監督の映画'「戦場のメリークリスマス」の音楽を担当し、英国アカデミー賞音楽賞を受賞。同年YMO解散。その後、映画「ラスト・エンペラー」の音楽を担当し、'88年にアカデミーオリジナル作曲賞を日本人で初めて受賞。続く'89年グラミー賞映画・テレビ音楽賞を受賞。以降、映画音楽作家としての地位を確立する。1992年、バルセロナオリンピック開会式にてマスゲームの音楽を作曲・指揮する。 日本でも1999年、製薬会社三共のCMに用いられた「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」はミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルの曲としては初のオリコンチャート1位を記録した。また、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソング『Zero Landmine』の製作 [2] やアメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。 矢野顕子(2002年に離婚)との間にもうけた娘、坂本雨も歌手・アーティストとして活動している。
東京藝術大学音楽学部器楽科(ヴァイオリン)在学中の1990年、クライズラー&カンパニー(KRYZLER & KOMPANY)のヴァイオリニストとしてデビュー。
セリーヌ・ディオンとの共演で一躍、世界的存在となる。1996年解散後はソロとして活躍。「Etupirka(エトピリカ)」や「情熱大陸」は有名。国境やジャンルを越え、ブラジル、ラテン、ジプシー、アイリッシュ音楽など幅広く吸収したサウンドはオリジナリティに富んだ、独自の世界観を作り出している。
毎年 恒例となった自身の全国コンサートツアーや癒しの代名詞となったコンピレーションアルバム「イマージュ」の全国ツアーなど含め、年間100公演にも及ぶ。 また、J-WAVE「ANA WORLD AIR CURRENT」のパーソナリティーや画家としての顔も持っている。 2002年自身が音楽総監督を務める「アーティスト自身が自由に創作できるレーベル」“HATS”を設立。プロデューサーとして、本格的に活動。“HATS”に於けるアーティストや様々なイベントプロデュースなど、幅広く手掛ける。最近では爽健美茶限定「中島美嘉ビューティフルライブ」「朧月夜〜祈り」を含めた、中島美嘉ミニアルバムをプロデュース。
井上陽水が作詞、奥田民生が作曲した「アジアの純真」でデビュー。
「これが私の生きる道」「渚にまつわるエトセトラ」等、少しレトロな曲調と脱力感漂うボーカルが人気。 2003年に全米デビューし、2004年からは米最大のアニメ専門局カートゥーン・ネットワークで、puffyをモデルにしたアニメ「Hi Hi Puffy AmiYumi」が全米で放送され、子どもアニメ部門の視聴率1位を記録した。ニューヨーク市内には地下鉄の駅やバスの車体広告など、あちこちにパフィーの広告が出現。監督がpuffyのファンだったことから、映画「スクービー・ドゥー2」の主題歌にも抜擢される。
1987年 ギターウルフ結成。
1991年 ドラマーがトオルにチェンジし、現在のメンバーになる。
1993年 エストラスレコード主催のガレージショックへの出演を含む初のアメリカツアーを行う。OBLIVIANSのメンバー主催によるレーベル"GONER RECORDS"より1stアルバム「WOLF ROCK」リリース。
1994年 6月にLess than TVより2ndアルバム「RUN WOLF RUN」をリリース。アメリカのパンク紙「MAXIMUM ROCK'N ROLL」の表紙を飾る。 1997年 全米ツアー(34カ所)敢行。テキサスの巨大イベント「SXSW 1997」のマタドールナイトにも出演。ローリングストーン誌のページを飾る。4月下旬にはロンドン、ドイツのクラブを「THE JON SPENCER BLUES EXPLOSION」とのジョイントツアーで廻る。メジャー争奪戦の末、Ki/oon Recordsに移籍後、メジャー1stアルバム「狼惑星」リリース。「インベーダーツアー」を行う。10月末には「THE CRAMPS」と共に全米31ヶ所のツアーを行う。 1998年 1月メンフィスの親友OBLIVIANSとともに日本でショートツアーを行う。4/1にマキシシングル「カミナリワン」をリリース「カミナリツアー」を世界的に敢行!!全日本12カ所、初のヨーロッパツアー16カ所でも軒並みSOLDOUT!! 6月に「THE CRAMPS」日本ツアーを、強力サポート。その後、全米24カ所を1カ月で廻る。8/1にはフジロックフェスに出演。9月にはアメリカから「ウォーグルス」を招いてショートツアーを行う。 2000年 マキシシングル「GOD SPEED YOU」、メジャー3rdアルバム「ロックンロールエチケット」リリース。「ロックンロールエチケットツアー2000」(全国38都市44カ所)敢行。 2002年 1月にサンフランシスコの「THE ZODLAC KILLERS」を呼びショートツアー。3/6に2年ぶりとなるメジャー4thアルバム「UFOロマンティクス」をリリース。全国36ヶ所のリリースツアー「火の玉ツアー2002」を敢行。 11月にはフランスの老舗パンクレーベルより「UFOロマンティクス」をリリース。そのプロモーションツアーをフランス、ベルギー、オランダ、スペイン、スイスで敢行。軒並みソールドアウト。日本に戻ると、ブラジルで共演したAUTORAMASとショートツアーを行う。 2003年 2月、アメリカNARNACK RECORDSより「UFOロマンティクス」をリリース。リリースツアーを、アメリカ6都市8公演を行う。「THE D4」のプロモーション来日にシークレットゲストで出演。「FUJI ROCK FES 03」に出演するなど、その後も世界中で活躍。2005年3月にベーシストのビリーさん(38歳)が心不全の為死去。ご冥福をお祈りいたします。
「東洋のテクノ・ゴッド」との異名をもつ。93年、学生時代に制作したデモテープがベルギーのテクノレーベル「R&S」から即、採用される。そしてリリースされた [ Garden On The Palm ] は、イギリスの音楽誌「NME 」のテクノチャートでNo.1を獲得。同時期にオランダのレーベルESPやカナダの+8からも別名義でシングルをリリース。オランダのレイヴ「ヘルレイザー」にも招待され、2万人の前で彼のキャリアにとっても“初”であったライヴを行う。95年には、ドイツの世界一のテクノ・フェスティバル「LOVEPARADE」のオフィシャル・イベントでもライヴを披露し高い評価を得る。初期作品のベスト盤ともよべる[ Innerelements ](R&S / SONY)で当時の彼の作風が堪能できる。 98年には長野オリンピックオフィシャルオープニングテーマのインターナショナル版を作曲。世界70カ国以上でオンエアされ、話題を呼ぶ。その後、アジアでもCDリリース。各国からの熱いラブコールに応えての台湾、香港、シンガポール、フィリピンでのプロモーション・DJツアーは大成功に終わり、計1万人を越す動員を記録した。 その後日本で活動するが、日本でのプロジェクトをリセットし、世界中からのDJオファーに応えるべく、1年の2/3を海外でDJをするような活動へと軸足を移す。 その間、テクノやクラブをめぐる状況も、日本、ヨーロッパ、アジア、アメリカと各地域で微妙に変化し、そのすべてのオーディエンスの熱狂に応えていくようなスタイルに、彼自身のDJも変化してきた。その意味でまさにインターナショナルなアーティストとしてのキャリアを身をもって体験してきた。 その経験を基に2002年10月ニューアルバム [ Future In Light ](70Drums/Musicmine) でストレートなデトロイトテイストのテクノへと進化したダンス・ミュージックを表現している。今までのどの作品よりも、ストレートでポジティブな仕上がりになっている。 これは自身のレーベル “ 70Drums ”からの初リリースとなり、これからのアーティスト活動の序章ともなっている。
3歳より母の勧めでクラッシクピアノの勉強を始めたが映画やジャズ好きの両親の影響を受け、小学生のころになると次第にジャズ、そしてそれを生んだ国アメリカに興味を持ち始める。10代のころ大阪のクラブでピアノの伴奏のアルバイトをしていたある日、歌手が来られず急遽ピンチヒッターとして彼女が歌を披露し大好評となって以来弾き語りが彼女のスタイルとして定着する。
高校卒業後はロス・アンジェルスと神戸を行き来する生活が始まる。UCLAの英語学校に通いながらアルバイトに精を出し、夜はジャズ・クラブに遊びに行く。時には飛び入りで演奏、歌を披露し、ジャムセッションに参加することもあり、マッコイ・タイナー、ラリー・カールトン等ウエストコーストジャズプレーヤーとのセッションも経験している人前でピアノを弾いたり歌を歌う事が大好きな彼女だったが当時はプロになる気は全くなかった。音楽やジャズの勉強をするためにアメリカに滞在した訳ではなく、自分の気分に似合った土地がアメリカにあったために、ロスを生活の拠点にしたに過ぎなかった。このころ、弾き語りからソロヴォーカルに転向。 84年に当時エリントン楽団にいたアルトサックスプレーヤ、ケニー・ギャレットと共演。それをきっかけにニューヨークに渡る。88年にはハーレムターベナクルチャーチでゴスペルワイヤーとしてコネチカット、ニュージャージー、、ジョージアを中心に活躍しシャーリー・ホーン、ジュニア・クックなどとのセッションも経験する。幼いころから耳にしていたジャズと、ニューヨークでのゴスペルとの出会いが、現在の彼女の音楽的なバックボーンになっている。 91年の秋に長男と帰国。神戸に在住。"A Song For You""Only You"と2枚の自主制作のCDを発売するがともに現在は完売し、絶版となっている。その後、地元神戸や名古屋、金沢などを中心に演奏活動を続け、98年6月にデビューアルバム"FOR ALL WE KNOW"を発表し、プロとして本格的な活動を始める。以来、彼女のLiveに感動した人々の口コミが伝わり全国のジャズクラブでのライブはすべてSOULD OUTとなる大盛況である。 |
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